雅吉先生&彩子先生インタビュー特設ページ

玉村ダンススクール
45周年記念パーティー開催

特別インタビュー

ここまでこれたのは『関わってくださったすべての皆様とのよいご縁のおかげ』

今年で創設45周年を迎えた玉村ダンススクール。今回の記念パーティーに対する意気込みや、教室の始まりから現在までの歴史的な裏話まで、玉村ダンススクールの創設者である山田雅吉先生、そして今回の45周年記念パーティーの実行委員長である竹井彩子先生にお話を伺います。

ーー 本日は、代表の山田雅吉先生と、今回の周年パーティーの実行委員長である竹井彩子先生にお越しいただきました。どうぞよろしくお願いします。

よろしくお願いします。

よろしくお願いします。

ーー まずは45周年おめでとうございます。45周年、まずはどのようにお感じになられていますか?

今回の45周年パーティーが開けるとは想像もできなかったような状況です。この45周年を開催するにあたり、3.11やコロナなどがあったりしていろいろ悩みましたが、いろいろな方の協力もあり、この度開催する運びとなり、ありがたいと思っています。

私は初めてデモンストレーションで呼んでいただいたのが15年前の30周年記念パーティーの時だったんです。なので、45周年っていうのは、本当に雅吉先生もおっしゃっていた通り、想像もできないような長い年月だと感じています。今回の45 周年記念パーティーに携わらせていただいて、凄く光栄に思います。

ーー 彩子先生が玉村ダンススクールで働くようになったのはいつ頃のことですか?

35周年記念パーティーの年なので15年前ということになりますね。雅吉先生の玉村ダンススクールへ、圭一郎先生と一緒に来ました。

ーー 今回のパーティーのテーマは「サファイア」とお伺いしました。ポスターやパンフレットなどにもあしらわれているそうですが、なぜ「サファイア」がテーマなのでしょうか?

45周年において何かテーマを決めようとなったときに、結婚における周年記念の名前を使ってみてはどうかと考えました。結婚45周年が「サファイヤ 婚」 という名前でしたので、 今回はサファイアをテーマにしていこうということになりました。創立は雅吉先生とみさえ先生なので、お二人の記念ということにも重ね合わせられますのし、結婚の周年で例えるのはとてもいいんじゃないか、と。

ーー 彩子先生は実行委員長だそうですが、今回どのような点に苦労されましたか?

今回のパーティーは出演者数がものすごく多いので、準備や対応について大変だったなと感じた部分がありましたね。それから私事ですけれども、去年子供が生まれまして、さらにパーティーの準備に対して思うように時間をとることができない大変さがあったというのもありました。

ーー 彩子先生にお子さんが生まれたそうで、おめでとうございます。子育てとパーティーの準備、さらにレッスン等、日頃のお仕事があって、両立に苦労されているのですね。 ・・・彩子先生のお子さんということは、雅吉先生にとってはお孫さんに当たりますね。雅吉先生は、初めてのお孫さんのことについてはどのようにお感じですか?

特に何をやってるってことはないのですが、 忙しい時に子守をしてるっていうぐらいですね。大変ではないですよ。女の子でとても可愛いです。

ーー お孫さんは今、おいくつになられましたか?

 まだ0才です。

ーー なかなか手のかかる時期ですね。お孫さんにも、今回のパーティーを楽しんでいただきたいですね。

そうですね。

ーー 改めまして、お二人についてもう少しいろいろとお伺いしたいと思います。お二人がダンスを始めたキッカケや、教室を始めきっかけなど、玉村ダンススクールについての歴史をお伺いできればと思います。まずは雅吉先生からお願いします。

私の場合は、二十歳の成人式が終わって5日後くらいだと思いますが、桐生の白樺舞踏学園に見学に行きましてね。それがきっかけでダンスを始めることになりました。

ーー 成人式の5日後・・・というのは、見学に行こうという何か具体的なキッカケがあったのですか?

はじめ、私の友達が行きたいということで一緒に行ったんです。その友達の彼女が習いに行っているということで、自分も行きたいのだけど一人で行くのは恥ずかしいっていうことで、付き合わされたんですよ。しかしその友達は一週間と持たず、私はそのまま継続してこれまして・・・私のダンス人生はそこから始まったんです。

ーー なるほど。お友達がキッカケだったのですね。では、その後みさえ先生とパートナーを組まれたキッカケについてのエピソードはありますか?

たまたまなんですけど、桐生の白樺舞踏学園の堀口宏さんから「大阪で全日本があるから、誰かパートナーを見つけて出ないか?」 と声を掛けてもらったんですね。その時にみさえ先生は横堀ダンス教室というところへ習いに行っていまして、パートナーとしてどうですか?という流れから一時的に組むことになり、一か月間練習しまして大阪の全日本に出場しました。その全日本で、たまたま7位入賞することができたんです。それがキッカケですね。その全日本7位入賞からの継続です。

ーー 一時的に組んだことがキッカケだったんですね。みさえ先生はすでに亡くなられたとお伺いしましたけども、みさえ先生がダンスを始めたキッカケについて、ご本人からなにか聞いてることなどはありますか?

みさえ先生は、前橋社交っていうダンススタジオが当時ありまして、そこではじめ少し習っていたみたいですね。それで、赤堀に赤城センターっていうダンスホールがあったんですけど、みさえ先生がたまたまそこに遊びに行った時に 、伊勢崎の先生のパートナーにならないかと誘いを受けたことが正式にダンスを始めるキッカケだったかと思います。

ーー その後、お二人はパートナーを組んで競技ダンスを始めた、ということですが、最初はアマチュアからスタートされたのでしょうか?

そうですね 。アマチュアでやっていました。当時みさえ先生には違うパートナーがいて、私にも違うパートナーがいて、たまたまそれぞれがパートナーを解消したところで全日本の話がありまして、私とみさえ先生がパートナーを組んだ、というわけですね。それで1979年にですね、イギリスのブラックプールで世界選手権のフォーメーションに白樺チームが出場するということで、私たちもそれに出るということになりました。そして半年間猛練習をしまして、ブラックプールでラテン・モダンとも両部門優勝させていただきました。それからのターンプロ(アマチュアからプロに転向すること)ということになります。 

ーー ブラックプールというと、社交ダンス会では最も権威ある大会と言われているあの試合のことですか?

そうです。そして、イギリスから帰ってきて、次の目標のための練習をするため、自分たちのための練習所を作りました。当時みさえ先生のご両親が食堂をやってまして、その食堂の駐車場の上に作ったんです。はじめは自分たちが練習するための場所でしたが、教えてくださいって言う方もこられるようになりました。じゃあ、ダンススタジオをやろうかっていう風になっていったのが、玉村ダンススクールの始まりです。

ーー 最初にお二人用の練習スペースだったところから、だんだん玉村ダンススクールの今の形に発展していったのですね。

そうですね。

ーー ありがとうございました。では続いて、彩子先生が社交ダンスを始めたキッカケについて、教えていただけますか?

私の母がやっていたからですね 。それで、母が通っていた教室のオーナー夫婦に赤ちゃんができたということで、その教室に新しくスタッフを入れないと、ということになったのですが、オーナーである先生が新しくパートナーを探してイチからスタッフを育ててみようという考えがあったようです。その話を生徒さんたちにしていた中で、私の母が「じゃあ、彩子ちゃんどうかな?」ということで紹介してくれました。

ーー オーナーの先生はプロでいらっしゃいますよね?ということは、彩子先生はアマチュアを経ずに最初からプロになったということですか?

そうですね。プロA級からスタートしました。

ーー プロA級と言うと、一番上の級ですね。

そうです。

ーー なるほど。いきなりプロの現場で戦うということになったわけですね。いろいろと苦労されたのではないですか?

はい。試合に出ても、すぐに一次、二次などで落ちてしまったりしていて。それを自分の責任だと、すごく追い詰めてましたね。

ーー それはおいくつぐらいの時ですか?

二十歳の時です。

ーー 彩子先生が玉村ダンススクールで働くことになった経緯を教えてください。

その教室でオーナーさんと組んだのが4年くらいだったと思います。その後、オーナーの奥様が復帰されることになりまして、私は他のリーダーを探すことになりまして、色々探していく中で圭一郎先生と出会い、組むことができて・・・という感じで今に至ります。

ーー ありがとうございました。それでは次に、45周年という長い創業の歴史の中で、印象に残っている出来事を教えてください。まずは雅吉先生からお願いします。

最初のスタジオがあったところの道路が広がるということで、当初は曳屋(ひきや)さんに50メートルぐらい離れたところに引っ張ってもらってスタジオを移すというだけの予定が、大体8割ぐらいの時に、土地の所有者の方が売らないっていう話になってしまったんです。それで、別の場所を急いで探さないと、ということで、みさえ先生とそのお姉さんがあちこち探してくれて、そして今の場所にたまたま売地っていう看板が立っていたのを見つけたんです。で、即日購入を決めました。

ーー 曳屋(ひきや)さんというのは?

昔は、建築物を上に持ち上げてそのままの状態で移動する建築工法があったんですよ。

ーー なるほど。解体せずにそのまま引っ越そうとしたのですね。昔の場所から今の場所はどのくらい離れているのですか?

うーん・・・500~600メートルくらいでしょうか。

ーー 意外と近かったのですね。とはいえ、移転しなければならなかった歴史があったということですね。では、彩子先生が玉村ダンススクールに来られてから印象に残っている出来事などを教えてください。

生徒のみなさんがすごくアットホームだったことが本当にすごく印象的でした。例えば、家庭菜園で育てた野菜を持ってきてくださったり、お昼ご飯を買ってきてくださったり、差し入れをすごく買ってきてくださったりだとか。みなさん優しいなってすごく感激したことですね。

ーー 現在、玉村ダンススクールは、たくさんのスタッフの先生方や、生徒さんに囲まれているとお伺いしました。ここまで大きな教室になったのはどんな理由があると思いますか?

私たち夫婦でやってた時から比べると、跡を継いでくれた圭一郎先生・彩子先生によるレッスンの仕方や、スタッフの誘導の仕方とか、そういうことが一つ大きな理由で、スタッフが増え、お客さんも増えて今の状況があるのかなと思います。このご時世でこれだけ皆さんにご協力いただき、大きなイベントができるのも幸せなことだと思います。

ーー はい、ありがとうございます。彩子先生はどうお考えですか?

縁がすごくあったと思います。生徒の皆さんもお友達を紹介してくれたりだとか…だから皆さんに助けられてここまで来てると思います。

ーー いいご縁がたくさんあったのですね。では、改めてパーティーの話に戻りますが、このようなパーティーは毎年開催されているのでしょうか。

5年に一度ですね。

ーー なるほど。では今回は5年ごとの記念パーティーということで、なかなか通常のものより規模が大きいというイメージですか?

はい。

ーー それでは、45周年パーティーに対しての、お二人の意気込みをお伺いしたいと思います。雅吉先生からどうぞ。

先程も申しあげたのですが、45周年記念パーティーができるということ自体、大変幸せなことで、これもひとえに、スタッフ並びにお越しいただきました各先生方並びに出演してくださる生徒さんのおかげだと、深く感謝申し上げたいということです。

協力してくださった群馬県の教室並びにご招待させていただいた外部のお教室の先生方、ご出演くださる生徒様、皆様の期待を裏切らないように、今持てる力のすべてをこのパーティーに捧げたいと思います。

ーー はい、ありがとうございます。では、最後に。次回の記念パーティーは50周年となり、半世紀という大きな節目を迎えることになると思いますが、50周年に向けて意気込みをお聞かせください。ちなみに、雅吉先生は5年後はおいくつになられますか?

 5年後っていうと…79歳ですかね。まずは79歳まで健康でダンスをやっていけることが一番今の目標ですかね。あとは、息子夫婦やスタッフたちが継続してスタジオを盛り上げていただければありがたいと思います。

スタッフの育成に力を注ぎたいと思います。そして5年後には、今いるスタッフたちが独立できるようにしたい。尚且つ、教室には新しいスタッフも入れて…。それで、今いるスタッフが独立の末に外部の教室からこられるようにしたいです。それと、5年後にはまだ社交ダンスを始めてない新しい方達がパーティーデビューできるような環境を整えたいと思います。

ーー 本日は代表の山田雅吉先生、そして実行委員長の竹井彩子先生にお越しいただきました。お二人とも本日はありがとうございました。

ありがとうございました。

ありがとうございました。